藤五郎太プロフィール
平成18年7月よりサラリーマンの傍ら伊東聖鎬氏が主宰するコスミックウィズダムの
エネルギー回復療法を始めとした10種類以上のセミナーを受講するようになった。
平成19年3月本格的に勉強するために勤めていた会社を辞し、コスミックウィズダムのスタッフとなった。
治療、マッサージ、コミュニケーション技法を習得した後、平成22年8月円満に独立した。
独立後、自分のコミュニケーション手法を筋肉反射コミュニケーションと呼ぶようになった。
その筋肉反射コミュニケーションを駆使して生まれて来た意味に気付くお手伝いを展開するようになった。
基本は相手本位に話を聴くことにある。
藤五郎太 詳しいプロフィール
昭和39年3月31日生まれ
福岡県福岡市出身
昭和54年長尾中学卒業
昭和57年 福岡県立城南高校卒業
昭和62年 九州大学法学部卒業
中学ではIとYとKWとで、
家が飲み屋で夜は親のいないKの家に
集まり朝まで語り合っていた。
今でもK、Iは親友だ。家族ぐるみで付き合っている。
Kの子供達は私のことを五郎太おじちゃんと呼ぶけれど、
私のことは友達と思っているようだ。
それと生徒会長のEとは今も仲良しでお世話になりっぱなしだ。
有り難いことだ。
高校ではラグビー部に所属し当時の仲間には今も親密に付き合ってもらっている。
彼らは掛け替えのない仲間だ。
大学ではテニスサークル アプリコットに所属した。
勉強ほったらかしで彼らや学部の仲間と毎晩飲み明かした。
テニスは今でも大好きで、東京体育館の壁打ち場に時々出没している。
時はバブル前夜。企業は人材確保にやっきになっていた。
就職活動などしなかったが先輩から日立へ来いと云われて
そのまま日立製作所へ入社した。
日立ではシステムエンジニアや営業や新事業立ち上げなど様々な
仕事をさせてもらった。
印象深い仕事は沢山ある。
30代前半はコンピュータ営業をしていた。
朝までお客さんと飲みながら、お客さんに仕事を教えてもらった。
本当に有り難いことだ。
そのころのお客さんが時々オペラの舞台に立つのだが、
必ず応援に駆け付けるようにしている。
一時期、今は無きデジタルキャストインターナショナルという
BSデータ放送局へ出向していた。
プロデューサーという肩書には本人も周りも笑っていた。
そこでは、将棋番組をプロデュースした。
日本将棋連盟には大変お世話になった。
森内俊之九段(現在は名人)が来てくれて番組を紹介できたのには感激してしまった。
30代前半で結婚したが、それは短い結婚生活だった。
当時は哲学ができておらず、ヴィトンの夢にどっぷりと浸かっていた。
その後、新事業推進の仕事で農作物の生産者から販売店まで
どのような人の手を渡って届くかをトレースする実験を行った。
このとき、農家の方々と仕事をしたのが転機となった。
当時の肩書は部長代理だった。普通に言えば課長である。
日立製作所の課長の肩書があれば、どこへ行っても話ができる便利なものである。
飲み屋さんでもそれなりの待遇を得られる。
そんな時、農家の方から貰った名刺には
百姓 何某
と書いてあった。
その方がおっしゃるには、
「百姓というのは畑を耕しているだけじゃない。
あの納屋は俺が建てた。つまり大工だな。
あのトラクターは修理しなきゃいかん。つまり修理工だな。
コンピュータもいじるぞ。
もちろん土の研究もやっている。
家に帰ればおやじだ。
一人で何でもやるから百姓というんだよ。」
私は吹っ飛んでしまった。
これこそ地に足を着けた生き方だ。
対して自分は下駄の上に靴を履いているようなものだ。
名刺が無ければ何もできないのだから。
以来、どうやって地に足を着けるかを考えるようになった。
いずれにしても60歳で定年を迎えると、
何もできない寂しいおっさんになるのは目に見えている。
自分はそれまでに地に足を着けた楽しいおっさんになる準備をしなければならない。
自分というものだけで生きていけるおっさんにならなければならない。
自営業になるのが真っ当生き方なのだ。
そうこうしているうちに、
以前から知り合いだった伊東聖鎬さんが
治療技術とマッサージのセミナーを開いていることを知った。
伊東聖鎬さんの治療とマッサージは他にはない完全にオリジナルなものだ。
私は或時期肩こりが酷くてじっと座っていられないぐらいだった。
しょっちゅうマッサージに行っていたが、
気休めにしかならなかった。
そんなとき、伊東聖鎬さんのチラシが家に入った。
そこには、
「ほとんどの肩こりは鎖骨のずれが原因です。
それを治せば肩こりは解消します。
肩こりが治らなかったらお金は要りません。
チラシ持参の人はマッサージ40分サービスして治療費8000円」
と、あった。
私は藁をも掴む気持ちで伊東聖鎬さんの治療院へ伺った。
まずスタッフからマッサージを受けた。
肩をぎゅっと揉んでくれるかと思いきや、
物凄く柔らかいタッチで擦るようなマッサージであった。
ところがそのマッサージが途轍もなく効くのだった。
強く押さないのに筋肉の奥深くに届くから不思議だ。
あっという間に40分が過ぎてしまった。
その40分であらかたの肩こりは消えていた。
そして伊東聖鎬さんとの対面である。
挨拶のあと、伊東聖鎬さんは快活に今日はどうしたのと言った。
肩こりが酷くてなんとかしてもらいたいのですがと言うと、
伊東聖鎬さんは私に触らず、助手の人の腕に触ってぶつぶつ
呟きだした。
そして、ベッドに横になるように指示した。
そのベッドは人が横たわる面が5分割ぐらになっていて、
一つ一つのブロックが上下に動くようになっている。
私がそのベッドに横たわると、伊東聖鎬さんはブロックの一つをレバーを使って上に上げた。
そして、僕の体の上から軽く圧力を加えるとそのブロックがストンと落ちてベッドは平らになった。
そんなことを何回かやったら、
完全に肩こりは無くなっていた。
治療は全く痛みを伴わない。あっという間の出来事だった。
伊東聖鎬さんはその日いろいろと不思議な体験をさせてくれた。
リフトアップ体験とか、働きの悪い筋肉を一瞬にして力強くしたりとか、様々な楽しい体験だった。
伊東聖鎬さんが何か技を繰り出すのは全部、助手の腕に手を乗せてぶつくさ言ってからだ。どうやらそれで私の情報を取っているらしい。
それは後で分かったのだが筋肉反射検査というものだった。
その治療(筋肉反射検査含む)とマッサージのセミナーを伊東聖鎬さんが開いていたのだ。
当時私は自転車屋をやろうかなと思っていた。
子供たちを集めてサイクリングに行くような楽しいおっちゃんになろうと思っていたのだ。
そんなとき、この治療とマッサージの技術は自転車屋にも役に立つなと思ったわけだ。
自転車で疲れたらマッサージサービス、痛みがでたら治療という具合だ。
当時伊東聖鎬さんのセミナーは歯科医師向けだったが快く参加させてくれた。
セミナーを受けてみると、技術の話はほとんどなくて道理のセミナーだった。
それがとてつもなく面白いのだ。
伊東聖鎬さんはおっしゃる。
「周りの人を幸せにしなけりゃ自分が幸せでいられるわけないでしょ!」
それは道理だ。そんな話が一杯聴けるセミナーなのだ。
時に道理というものは普通の生活からかけ離れていることもある。
歯科医師に向かって、
「どうして治療するの?」
「自分で治すチャンスを奪ってるだけでしょ?」
「奪うのは満ち足りていないからでしょ?」
「自分から溢れなきゃ幸せになれるわけないでしょ?」
そんなことをおっしゃるのだ。
そんな話を聴いてるうちに、
私はもう会社に居られなくなってしまった。
何の為にこの商品(セキュリティシステム)を売っているんだろうか。
誰を幸せにしているのだろうか。
セキュリティシステムを売るぐらいならみんなが信頼し合える世の中にするほうが自分には向いていると思うようになっていた。
そう思い始めると会社が眠たくて仕方がなかった。
昼に抜け出して漫画喫茶で小一時間寝たりもしていた。
セミナーを受け出してから私は毎日伊東聖鎬さんの治療院へ通わせてもらった。
治療の見学と過去のセミナーDVDのテープお起しを手伝うことで勉強するためだ。
そんな生活が半年もすぎたころ私は会社を退社して、
伊東聖鎬さんのセミナー運営会社「コスミックウィズダム」と治療院「医美」
のスタッフになった。
日立の課長職を捨ててマッサージの研修生になったわけだから、親はびっくりした。
母親は泣いていた。それは後に解消する。
スタッフになってもセミナーは受け続けた。
もちろん受講料を払ってだ。
そこで私は地獄を見た。
伊東聖鎬と先輩スタッフは容赦がない。
人を育てるとは徹底的に厳しくすることである。
乗り切るためには哲学しかない。
何の為に生きているのかそれが無ければ、
治療やマッサージをする意味はない。
毎日みんなにぶっ飛ばされていた。
もちろん暴力ではない。
酷い仕打ちということだ。
朝9時から夜の12時まで作業して、役に立たないと云われ続けるのだ。
どうして役に立たないかというと
自分を始めていないからだと云われるのだ。
自分を始めていない人間が仕事ということができるわけがないだろう。
藤五郎太がやっているのは仕事ではない。
ただの暇つぶしだ。だから評価のしようが無い。などと言われるのだ。
そんなとき、役に立ったのはラグビー部の友達が昔言った言葉だった。
「社会人になっていろいろ苦労するけど、
夏の練習に比べたらたいしたことないって思えるよなあ。
そうやって俺は辛いことを乗り越えているよ」
それを励みに自分と向き合う毎日だ。
給料も少なかったので生きるためにマンションも手放した。
とても辛い毎日だった。辛くはあったが幸せに向かっている確信だけはあった。
だから顔は依然より明るく柔和になっていた。
そんな辛さを乗り越えた先には自由が待っていた。
セミナーを受け始めて4年が経っていた。
私の哲学も進み、治療も筋肉反射もできるようになり、
マッサージの技術も相当に上がった。
そして、一つのステップを上がる必要がでてきた。
それは「自分を始める」という言葉で表現されるものだ。
換言すれば「自分の生まれて来た意味」に向かって生きることだ。
それは人の幸せに協力することだ。
それを仕合わせという。
それはいつか自分が幸せになる方向に人生の舵を切るということだ。
そして、私は平成22年8月にコスミックウィズダムを円満に退社し生きることを試行錯誤した。
やがて今のスタイルが出来上がった。
それは、とことん人に協力すること。
何をかというと、
その人が生まれて来た意味に気付くことにだ。
それはその人の幸せに協力することだ。
これを始めるに先立ち、私は福岡の実家に行った。
そして、母親をぎゅっと抱きしめてこう言った。
「僕は今とても仕合わせなんだ。お母さん、僕を生んでくれて有難う」
昔泣いた母親も今は私の生き方を応援してくれている。
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